■平成13年(2001)11月号
山梨県中小企業団体中央会機関誌■平成13年度中小企業組合活性化情報
11月号の紙面から
11月号詳細記事
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戦後最悪のデフレ景気 全国から中小企業者が結集 苦境を訴える!
全国大会長野で開催
商工中金の民営化反対を特別決議
全国中小企業団体中央会と長野県中小企業団体中央会が主催する第五十三回中小企業団体全国大会が十月二十五日、長野県長野市「ビッグハット」で開催された。山梨県からは隣県ということで宮川睦武会長ほか総勢約百五十名、全体では全国の中小企業者約六千名が参加した。
大会では、主催者として全国中小企業団体中央会大河内信行会長、大会名誉会長である田中康夫長野県知事からあいさつが行われた。
大会では、国の重要施策である中小企業政策を抜本的に強化するため、早急に実現するべき事項について全会一致で採択され、山梨県中央会の各委員会で審議された決議事項についても、本大会決議に盛り込まれ採択された。
また、特別決議として現在民営化の話がでている商工中金について、国の中小企業政策の一翼を担う金融機関として、中小企業組合とその組合員である中小企業者に対し、今後国の関与を廃止することになれば、資金調達が困難になり、中小企業の資金需要に十分応えられなくなるので民営化を行うべきではないことを全会一致で決議した。
続いて、大会宣言の採択ののち、次期全国大会の開催地の発表があり、来年は埼玉県「さいたまスーパーアリーナ」で開催されることが報告された。
この大会では、表彰式も行われ、本県該当者は優良組合が山梨県歯科医師協同組合(理事長村松久中)、組合功労者が鈴木和雄氏(山梨県菓子工業組合理事長)、中央会優秀専従者が小佐野時雄氏(中央会業務部労働課長補佐)が表彰された。
本大会の模様は、長野県中小企業団体中央会により、インターネット配信されており、長野県中小企業団体中央会のホームページで11月末まで閲覧できる。
ホームページアドレス
http://www.alps.or.jp/chuokai/
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私の履歴書
小林正二(こばやし まさつぐ) 山梨県中小企業団体中央会 副会長
山梨県絹人繊織物工業組合 理事長
富士吉田織物協同組合 理事長
<幼児期から中学高校時代>
昭和8年、私は南都留郡下吉田町(現在の富士吉田市下吉田)で機業(はたや)の5男3女の長男として生れました。当地は昔からの織物産地で、わたしの家でも機業(はたや)を行っており奉公人も多く家に寝泊りしていましたので大家族の中で育ちました。
また、町じゅう機業(はたや)でしたので、織機の音でいっぱいでした。織機の音は、わたしの子守唄に似た音色だと記憶しています。
戦前から戦中までこのような環境のなかで地元の小学校に通っていましたが、戦時中織機を国に供出一時期織機の音が町から少なくなった時期でもあり、また、わたしの家でも機業(はたや)を休業していた時期でもありました。
戦後しばらくして機業(はたや)を再開する中わたしは、谷村工商(現在で言う谷村高校付属中学校)谷村高校と進みました。中学校時代は、卓球、高校時代は、サッカーをしました。高校時代のサッカーは、センターホワードを行い郡内大会で優勝し県大会へ出場したこともいい思い出となっています。
<仕事>
昭和26年谷村高校を卒業し長男の宿命で家業を継ぎ織物業を行うことになりました。この頃は、郡内の織物は、「ガチャ万」時代といい、「織機がガチャンと音を立てれば何万円か儲かる」という古き良き時代でした。
織物業は、裏地から始まり和服の雨コート・ドンスと変遷し綿服地へ昭和45年頃に移っていきました。その頃の服地への転進は、まだこの地域では多くなかったと記憶しています。
昭和55・56年頃には、東京、大阪等の日本の大消費地あるいは製造現場等を飛び回り研究を重ねると伴に兄弟等にも相談を重ねていく中、結果、現在行っている羽毛布団製造業へ業種転換をはかり、現在に至っています。いまに思えばその当時の決断は正しかったと思いますし、現在こうしていられるのもそのときの決断があったからといっても過言ではないと思います。
しかし、この間主要取引先の倒産等多くの出来事に遭遇し資金繰り等で非常に苦労した時期もありました。しかし、父からの教えの中で人との付き合いを常日頃から大事にしなさいとの教えがありこれを実行していた。そのため、取引先の支払いの延期等の協力が得られ危機を脱出した時期もあった。これら教訓を踏まえ、わたしの座右の銘は「誠心誠意」です。
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